18世紀後半、ジャワ島はヨーロッパ列強による植民地争奪の舞台となっていました。その中で、オランダ東インド会社(VOC)は広大な領土を獲得し、支配を強化していましたが、多くの地域では依然として地元の王侯やスルタンたちが抵抗を続けていました。 1746年、スラバヤのスルタン・ハムザはVOCによる圧政に反発し、戦いを挑みました。この戦いを「プルワンガの戦い」と呼び、ジャワの歴史において重要な転換点となりました。
スラバヤのスルタン:ハムザと彼の抵抗
スラバヤのスルタン・ハムザは、1725年に即位しました。彼は聡明で勇敢な指導者として知られ、民衆から深く尊敬されていました。しかし、VOCの勢力拡大により、スラバヤの独立は脅かされていきました。VOCは貿易独占と徴税を強要し、伝統的な権力を弱体化させようと試みていました。
ハムザは当初、VOCとの協調を模索していましたが、彼らの要求は次第に過剰なものとなり、彼の怒りを買い始めました。特にVOCの商船によるスラバヤ港の独占と、高額な関税の徴収は、スルタンの権威を貶めるとともに、地元経済に大きな打撃を与えていました。
プルワンガの戦いの背景:対立と緊張の高まり
1745年、ハムザのスラバヤに対するVOCの干渉が限界を超えました。彼はVOCとの交渉を拒否し、軍隊を編成して抵抗の準備を始めました。この決定は、スラバヤの人々や近隣の地域にも大きな影響を与えました。彼らはハムザのスルタンへの忠誠心と、VOCの支配からの解放を望む思いから、彼の抵抗に加わることを決意しました。
一方、VOCもスラバヤの反乱に対抗するために、強力な軍隊を派遣し、戦闘態勢に入りました。彼らはハムザの行動を「反逆」とみなし、彼らを鎮圧する決意を表明しました。こうして、両者の対立は激化し、ついに1746年、スラバヤ近郊のプルワンガで激突することになります。
プルワンガの戦い:勇敢な抵抗と悲劇的な結末
プルワンガの戦いは、両軍による壮絶な戦闘となりました。ハムザ率いるスラバヤ軍は、伝統的な武器である「クリス」や「パンジャル」を用いてVOC軍に勇敢に挑みました。しかし、VOC軍は近代兵器を装備し、訓練された兵士たちによって構成されていたため、圧倒的な軍事力を持っていました。
戦いは数日間に渡って続きましたが、スラバヤ軍は次第に苦境に追い込まれていきました。ハムザの卓越した指導力と兵士たちの勇敢な戦いぶりで、一時的に優勢を握る場面もありましたが、VOC軍の強力な攻撃の前に防戦一方となり、ついに敗北を喫しました。
戦いの結果とその後:スラバヤの運命とハムザの遺産
プルワンガの戦いは、スラバヤのスルタン・ハムザとその抵抗運動の終わりを告げました。彼は戦いの後、捕らえられ、VOCによって処刑されました。彼の死はスラバヤの人々にとって大きな悲しみの出来事となり、長年にわたり語り継がれてきました。
この戦いは、VOCのジャワ島における支配力をさらに強固なものにしました。しかし、ハムザの抵抗は、その後も続く植民地支配に対する抵抗運動の火種となりました。彼の勇気と独立への執念は、ジャワの人々の心に深く刻まれ、後世に大きな影響を与え続けます。
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出来事 | 日付 |
|—|—| | スラバヤのスルタン・ハムザが即位 | 1725年 | | ハムザがVOCとの交渉を拒否し、軍隊を編成 | 1745年 | | プルワンガの戦い | 1746年 | | ハムザが捕らえられ処刑される | 1746年 |
プルワンガの戦いは、ジャワの歴史において重要な転換点となりました。ハムザのスラバヤに対するVOCの支配からの抵抗は、その後も続く植民地支配に対する抵抗運動の火種となりました。彼の勇気と独立への執念は、ジャワの人々の心に深く刻まれ、後世に大きな影響を与え続けます。